2017年 04月 23日
【報告】原発賠償京都訴訟 第26回期日報告 |
原発賠償訴訟・京都原告団を支援する会事務局の上野です。
4月21日に行なわれた原発賠償京都訴訟第26回期日の報告です。長文、重複、共にご容赦ください。
今回は、何期日ぶりかで傍聴席が埋まりませんでした。新年度を迎え、職場の移動などもあり、休みにくい方もおられたのかも知れませんが、午前中で傍聴券席が10席近く余っていました。午後からは代理人席、原告席もまばらになり、傍聴席も空席が目立ちました。
久しぶりに託児を希望する原告さんが2名おられたため、託児スタッフの確保が必要になりました。直接声をかけ募集もした結果、なんとか4名(うち1名は午前だけ)の方が託児スタッフを引き受けてくれました。1日は長かったと思いますが、子どもたちは元気に過ごしたようでした。託児スタッフのみなさま、本当にお疲れ様でした。
今回も朝から夕方まで原告本人尋問でした。証言に立ったのは9名。原告が訴えたことを中心にまとめてみます。
◇郡山市から避難した女性は、子どもを被ばくさせたくなくて家に缶詰状態にしていたが、ストレスを感じて母子で避難。夫は飲食店を開店したばかりだったので残ったが、家族が離れて暮らすのは限界だと思い3年後に店を閉めて合流した。戻りたい気持ちはあるが、子どもの健康とまた転校の辛さを味わわせたくないので、今は戻る気はないと訴えました。
◇千葉県柏市から妻子が避難している男性は、勤務先の大学のモニターで空間線量が高いことがわかり、子どもと妊娠中の妻を心配して妻の実家がある京都へ避難させた。宿舎で付き合いのあった人たちはほとんど転居した。市は除染は終わったと言っているが、アスファルトが交換されたことはない。元の数値に戻るには10年スパンで見ていかないといけないと思っていると訴えました。
◇福島市から避難した男性は、今の妻と付き合っていたが、線量が高かったので福島で子どもを産むのは厳しいと判断。職場が避難所になっていたので、仕事を辞めて避難するまでに3~4か月かかった。子どものことを考えると今は戻る気はない。元と同じ線量になれば帰りたい気落ちはあると訴えました。
◇いわき市から避難した男性は、地震で家の壁が落ちて使えない状態になり、福島第一原発で働いていた義兄から「ヤバいぞ」と言われて避難を決めた。長男は入学が決まっていた茨城県の高校の寮へ戻った。長女は学校で「福島から来た子」と言われて不登校になり、結局妻の実家に帰ってしまった。知人や親戚が線量を気にしながら生活をしているのを知っているので、下の子を連れて戻ることはできないと訴えました。
◇福島市から避難した男性は、地震の日に妻子は避難し、自分も翌日合流して実家のある山口県へ避難した。その後、妻子は福岡市→福津市→京田辺市と住まいを変え、自分も福島大学を辞め、西日本の大学に移った。2年間の別居生活の間に56回妻子に面会に行った。低線量被ばくの健康影響が明らかになっていない中で、避難には合理性があるし、自分たちが被った被害は原発事故によって必然的に生じた被害だと思う。東電や国は真摯に対応してほしいと訴えました。
◇福島市から一時妻子が京都に避難していた男性は、原発が爆発した時の放射線量が30μSv/hだったこと、アメリカ政府が自国民に80キロ以内から避難せよと指令を出したことを知って妻子を避難させることを決めた。住宅ローンがあり、自分は仕事を辞められないので、上司に相談して転勤・出向願いを出していたが、13年12月に認められ、大分に転勤になり、家族と一緒に住めるようになった。避難者についての今村復興大臣の発言は許せない。二度とこういうことが起きない社会になればいいと思っていると訴えました。
◇福島市から避難したのち戻った女性は、先に兄が避難したのと回覧板で近くの公園の線量が高いことを知って避難を決めた。子どもが通っていた幼稚園・小学校では合わせて100人はいなくなった(避難した)。生活が苦しくなり戻ったが、支援があれば避難を続けていた。戻ってからも、野菜は京都から取り寄せ、水も買っている。子どもが外出する時はマスクをさせ、長袖・長ズボン。弁当を持って行かせるために私学に入れた。戻ってからも精神的苦痛があるので請求したいと思っていると訴えました。
◇千葉県松戸市から避難した女性は、子どもがリンパ性の病気にかかり、再発したら生命にかかわると言われていた。チェルノブイリ事故では白血病が多発したことを知っていた。長男は夏から原因不明の高熱が続き、長女は頭痛、だるさ、吐き気が続いた。子どもは住む所を選べないので、親が決断しないといけないと思った。避難後に千葉県でも甲状腺がんが患者が見つかった。千葉県北西部の汚染を知ってほしいと訴えました。
◇郡山市から避難した男性は、1歳の子どもがあり、妻が妊娠していたので、健康被害が心配で避難を決めた。避難後、放射能への恐怖、家族の健康被害への恐怖、知らない土地での生活などが重なり、うつ症状になった。今も睡眠障害がある。いくら除染しても森林が手つかずでは、線量はまた戻ってしまう。東電と国がちゃんとしていなかったので事故が起こった。復興大臣の「自己責任」発言はあまりにも無責任だ。強い怒りを覚えると訴えました。
被告側からの反対尋問はすでに聞き飽きていますが、「親や兄弟は避難したか?」「職場、同級生で避難した人はいたか?」「帰ることを検討したことはないか?」「市の広報紙に載っている線量を知っているか?」など。個別の損害に関しては、「新たに買ったテレビが○○円となっているが、もっと安いものもあるのではないか?」などと質問し、会場の失笑を買いました。また、「転居した際に、家財道具を持って来ることもできたのではないか?」と問い、「引っ越し代が高くつくので実家にあげた」との返答にグーの音も出ない場面もありました。
証言に立たれた原告のみなさんは、堂々と自分の思いを述べ、被告側の反対尋問にも誠実に対応していました。その姿勢は、仕事とはいえ加害者でありながらまるで検事のように上から目線で尋問する被告側代理人の下劣な品性を炙り出していたと思います。
今回はいろいろな事情で報告集会ができないため、昼休みに食事をとりながら簡単な集会を行ないました。今後本人尋問を控えている福島在住の原告(妻子が避難中)は、福島県の中通りで生活する住民が精神的被害を訴えて裁判を起こしたと報告、避難していない人も決して安全・安心だと思って暮らしているわけではないことを訴えました。ほかに、これから証言台に立つ原告とすでに立った原告が一人ずつ挨拶に立ちました。また、ひょうご訴訟の原告も支援を訴えました。
いま増えている関東からの避難者たちの交流グループ(GO WEST)からこの間の取り組みと今後の予定が報告されました。
次回は5月12日(金)です。9名の原告が証言台に立ちます。毎回同じような反対尋問も聞き飽きた感はありますが、証言台に立つ原告にとってはそれぞれが一回きりの本人尋問です。次こそは傍聴席をぜひ満杯にしたいと思いますので、ご協力をお願いします。
4月21日に行なわれた原発賠償京都訴訟第26回期日の報告です。長文、重複、共にご容赦ください。
今回は、何期日ぶりかで傍聴席が埋まりませんでした。新年度を迎え、職場の移動などもあり、休みにくい方もおられたのかも知れませんが、午前中で傍聴券席が10席近く余っていました。午後からは代理人席、原告席もまばらになり、傍聴席も空席が目立ちました。
久しぶりに託児を希望する原告さんが2名おられたため、託児スタッフの確保が必要になりました。直接声をかけ募集もした結果、なんとか4名(うち1名は午前だけ)の方が託児スタッフを引き受けてくれました。1日は長かったと思いますが、子どもたちは元気に過ごしたようでした。託児スタッフのみなさま、本当にお疲れ様でした。
今回も朝から夕方まで原告本人尋問でした。証言に立ったのは9名。原告が訴えたことを中心にまとめてみます。
◇郡山市から避難した女性は、子どもを被ばくさせたくなくて家に缶詰状態にしていたが、ストレスを感じて母子で避難。夫は飲食店を開店したばかりだったので残ったが、家族が離れて暮らすのは限界だと思い3年後に店を閉めて合流した。戻りたい気持ちはあるが、子どもの健康とまた転校の辛さを味わわせたくないので、今は戻る気はないと訴えました。
◇千葉県柏市から妻子が避難している男性は、勤務先の大学のモニターで空間線量が高いことがわかり、子どもと妊娠中の妻を心配して妻の実家がある京都へ避難させた。宿舎で付き合いのあった人たちはほとんど転居した。市は除染は終わったと言っているが、アスファルトが交換されたことはない。元の数値に戻るには10年スパンで見ていかないといけないと思っていると訴えました。
◇福島市から避難した男性は、今の妻と付き合っていたが、線量が高かったので福島で子どもを産むのは厳しいと判断。職場が避難所になっていたので、仕事を辞めて避難するまでに3~4か月かかった。子どものことを考えると今は戻る気はない。元と同じ線量になれば帰りたい気落ちはあると訴えました。
◇いわき市から避難した男性は、地震で家の壁が落ちて使えない状態になり、福島第一原発で働いていた義兄から「ヤバいぞ」と言われて避難を決めた。長男は入学が決まっていた茨城県の高校の寮へ戻った。長女は学校で「福島から来た子」と言われて不登校になり、結局妻の実家に帰ってしまった。知人や親戚が線量を気にしながら生活をしているのを知っているので、下の子を連れて戻ることはできないと訴えました。
◇福島市から避難した男性は、地震の日に妻子は避難し、自分も翌日合流して実家のある山口県へ避難した。その後、妻子は福岡市→福津市→京田辺市と住まいを変え、自分も福島大学を辞め、西日本の大学に移った。2年間の別居生活の間に56回妻子に面会に行った。低線量被ばくの健康影響が明らかになっていない中で、避難には合理性があるし、自分たちが被った被害は原発事故によって必然的に生じた被害だと思う。東電や国は真摯に対応してほしいと訴えました。
◇福島市から一時妻子が京都に避難していた男性は、原発が爆発した時の放射線量が30μSv/hだったこと、アメリカ政府が自国民に80キロ以内から避難せよと指令を出したことを知って妻子を避難させることを決めた。住宅ローンがあり、自分は仕事を辞められないので、上司に相談して転勤・出向願いを出していたが、13年12月に認められ、大分に転勤になり、家族と一緒に住めるようになった。避難者についての今村復興大臣の発言は許せない。二度とこういうことが起きない社会になればいいと思っていると訴えました。
◇福島市から避難したのち戻った女性は、先に兄が避難したのと回覧板で近くの公園の線量が高いことを知って避難を決めた。子どもが通っていた幼稚園・小学校では合わせて100人はいなくなった(避難した)。生活が苦しくなり戻ったが、支援があれば避難を続けていた。戻ってからも、野菜は京都から取り寄せ、水も買っている。子どもが外出する時はマスクをさせ、長袖・長ズボン。弁当を持って行かせるために私学に入れた。戻ってからも精神的苦痛があるので請求したいと思っていると訴えました。
◇千葉県松戸市から避難した女性は、子どもがリンパ性の病気にかかり、再発したら生命にかかわると言われていた。チェルノブイリ事故では白血病が多発したことを知っていた。長男は夏から原因不明の高熱が続き、長女は頭痛、だるさ、吐き気が続いた。子どもは住む所を選べないので、親が決断しないといけないと思った。避難後に千葉県でも甲状腺がんが患者が見つかった。千葉県北西部の汚染を知ってほしいと訴えました。
◇郡山市から避難した男性は、1歳の子どもがあり、妻が妊娠していたので、健康被害が心配で避難を決めた。避難後、放射能への恐怖、家族の健康被害への恐怖、知らない土地での生活などが重なり、うつ症状になった。今も睡眠障害がある。いくら除染しても森林が手つかずでは、線量はまた戻ってしまう。東電と国がちゃんとしていなかったので事故が起こった。復興大臣の「自己責任」発言はあまりにも無責任だ。強い怒りを覚えると訴えました。
被告側からの反対尋問はすでに聞き飽きていますが、「親や兄弟は避難したか?」「職場、同級生で避難した人はいたか?」「帰ることを検討したことはないか?」「市の広報紙に載っている線量を知っているか?」など。個別の損害に関しては、「新たに買ったテレビが○○円となっているが、もっと安いものもあるのではないか?」などと質問し、会場の失笑を買いました。また、「転居した際に、家財道具を持って来ることもできたのではないか?」と問い、「引っ越し代が高くつくので実家にあげた」との返答にグーの音も出ない場面もありました。
証言に立たれた原告のみなさんは、堂々と自分の思いを述べ、被告側の反対尋問にも誠実に対応していました。その姿勢は、仕事とはいえ加害者でありながらまるで検事のように上から目線で尋問する被告側代理人の下劣な品性を炙り出していたと思います。
今回はいろいろな事情で報告集会ができないため、昼休みに食事をとりながら簡単な集会を行ないました。今後本人尋問を控えている福島在住の原告(妻子が避難中)は、福島県の中通りで生活する住民が精神的被害を訴えて裁判を起こしたと報告、避難していない人も決して安全・安心だと思って暮らしているわけではないことを訴えました。ほかに、これから証言台に立つ原告とすでに立った原告が一人ずつ挨拶に立ちました。また、ひょうご訴訟の原告も支援を訴えました。
いま増えている関東からの避難者たちの交流グループ(GO WEST)からこの間の取り組みと今後の予定が報告されました。
次回は5月12日(金)です。9名の原告が証言台に立ちます。毎回同じような反対尋問も聞き飽きた感はありますが、証言台に立つ原告にとってはそれぞれが一回きりの本人尋問です。次こそは傍聴席をぜひ満杯にしたいと思いますので、ご協力をお願いします。
by shien_kyoto
| 2017-04-23 00:00
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