2015年 09月 30日
第3次原告の意見陳述 2 |
9月29日の第10回期日で意見陳述をされた、第3次原告の小林さんの発言を掲載します。(事務局)

私は、福島第一原子力発電所の事故の影響で、2011年8月、娘と2人、福島県福島市から京都市伏見区へ移り住みました。
震災の次の日の12日は、停電していない妹の家へ。そこで、1号機の爆発のニュースを知ります。福島市は。原発から約60キロ離れています。原発、放射能の知識などまったく無かった私は、まさか自分がその後、福島をはなれることになるなど、夢にも思いませんでした。
そして、我が家の電気が復旧した3月14日、3号機の爆発。さすがに、2回目の爆発となると不安になりました。翌日の3月15日、福島市の放射線量は24/時でした。しかし、その24マイクロシーベルトがどんな値なのか、安全なのか危険なのか当時の私は、さっぱりわかりませんでした。県外に住む友人から避難したほうがいいという連絡もきました。しかし、道路は寸断され、電車も止まっている、ガソリンも無い、どうやって、どこに避難してよいかもわかりません。地上波のテレビでは、「レントゲン1回で浴びる放射線の量は600マイクロシーベルトなので、なんら健康に影響はありません。安心して下さい」
「直ちに健康に影響はありません」とさかんに言っていました。
しかし、CS放送のニュース番組や、ネットの情報では、「原発は、メルトダウンしている。」「放出された放射性物質の量は、大変な量だ」ということを言っています。何の知識も持ち合わせていない私は、どちらを信じていいのか判らず、避難することもできず、「また、原発が爆発したらどうしよう?どこに逃げたらいいのだろう?」とオロオロするばかりでした。
その当時ほとんどのお店は閉店しており、開いていたとしても、1時間か2時間程度、ガソリンを節約するために移動手段は自転車や徒歩。お店に着いてからも外で1~2時間待つという状態でした。
私と娘も、食料や、水を手に入れるために、店の外に並ぶという日々が続きました。今となっては、娘を外に並ばせたことが悔やまれてなりません。そして、私が最も悔やんでいることは、2011年3月16日、福島市の水道水から水1キロあたりヨウ素177ベクレル、セシウム58ベクレルが検出されたことを知らずに飲んでいたことです。我が家は3月15日、水道が復旧しました。15日の夜は、実家の両親を家に呼び、温かい味噌汁を作り、お風呂に入り、洗濯をし、これで、日常が取り戻せると思い原発がこれ以上爆発しないようにと願いながら、水道が使えることのありがたみを感じていました。本当に、無知は罪です。
私は、それまで、原発のことなど、無関心、放射能の知識などゼロでした。そのため、娘や家族を被曝させてしまったのです。
その後、4月のはじめ、娘の通う小学校の放射線量が発表されました。地上1センチ3.4マイクロシーベルト、地上1メートル2.8マイクロシーベルトでした。その数値が安全なのか、危険なのかわからず不安だけが募る中、新学期が始まりました。
4月25日、ネットで見つけた、ある、市民団体が主催する「放射能から子どもたちを守る会」という集会に参加しました。
そこで、チェルノブイリ事故の際、年間5ミリシーベルトを超える地域に住んでいる住民は、移住すべきである。年間1~5ミリシーベルトの地域は、避難の権利があるということ。そして、原発労働者が5ミリシーベルトの被曝でガンになり労災認定されたということも知りました。この、事実を知ったとき、愕然としました。もう、3ミリシーベルトを超えるくらい、被曝しているし、このままだと、年間5ミリシーベルトどころじゃない。どうすればいいのだろう?そして、国は、子どもたちに年間20ミリシーベルトまで被曝させてもよいと言っていることに、またもや愕然とし、怒りと絶望、不安でいっぱいになりながら帰路につきました。
その4日後の4月29日、元内閣官房参与の小佐古敏荘教授が、校庭の利用基準20ミリシーベルトは、認められないと涙ながらに訴えた辞任会見を見て、怒りと、絶望と悔しさがますます募り、何とかしなければと思いはじめました。
その後、色々な、学者、専門家の講演会にも行きました。被曝低減のための施策をして下さいと、市役所、県庁にもお願いに行きました。
娘に初期被曝をさせてしまった私は、これ以上、娘を被曝させられない、避難したい、避難しなければという思いが大きくなっていきました。夫も、避難したほうがいいと言ってくれましたが、避難区域外の福島市からの避難者を受け入れてくれる所を探すのは、大変でした。京都府が、自主避難者を受け入れてくださるということを知り、ダメ元で、京都府の災害対策本部に電話をしたところ、とても、親切に私たちを受け入れてくださいました。
こうして2011年8月、私と娘は、京都市に母子避難することになりました。
京都に避難をしたものの、夫は、福島に住んでいるという2重生活です。経済的にはとても苦しい状況です。福島では、専業主婦だった私ですが、2012年の2月から、働きに出るようになりました。娘が生まれてから、約10年間以上、家にいた私が、いきなり、パートタイムではありますが、ほぼフルタイムで働きにでたせいでしょうか、2012年5月に、急性腎盂炎にかかり、8月には、帯状疱疹にかかってしまいました。
今もそうですが、日々生きるのに精一杯の状況です。
そんな中、なぜいま裁判の原告団に加わったのか?
今年に入り、国、東電、福島県は、私たち避難者の切り捨て政策を加速させています。
自主避難者への住宅支援の打ち切り、放射線量が年間20ミリシーベルト以上、50ミリシーベルト以上ある避難区域の解除など、命と健康、人権が軽んじられている政策を強行しています。本当に、憤りでいっぱいの日々です。
『原発事故を起こした加害者が、全く責任を取らない不条理に対して、今、声を上げないと一生後悔する』と思ったのが提訴を決めた一番の理由です。
去年の10月、福島の自宅の除染が終わりましたが、原発事故前の放射線量に戻ったわけではありません。汚染土の仮置き場が決まらないため、汚染土は、庭に埋めてあります。私の実家、ご近所の家は、裏庭に汚染土の入ったフレコンパックが積んであります。
フレコンパックは、劣化します。大雨や台風が来たら、流されてしまうかもしれません。実際、今月、起きた大雨の被害で、飯舘村の汚染土は、流されてしまいました。ホットスポットも沢山あります。風が吹けば埃が舞います。放射性物質も舞います。
事故前とは、何もかも違うのです。私たちは、無用な被曝をしなければいけないのでしょうか?被曝を避けることは、許されないのでしょうか?被曝を避ける選択をすれば、家族、お金、今まで築きあげたものを失ったまま我慢しなければならないのでしょうか?
人権が蹂躙されても、我慢しなければならないのでしょうか?
原発事故を起こした加害者が決めたことに被害者が従うのが司法なのですか?
そんなことが認められたら、この国は、法治国家と言えるのでしょうか?
この国の司法が正しく機能していることを示してください。お願いします。

私は、福島第一原子力発電所の事故の影響で、2011年8月、娘と2人、福島県福島市から京都市伏見区へ移り住みました。
震災の次の日の12日は、停電していない妹の家へ。そこで、1号機の爆発のニュースを知ります。福島市は。原発から約60キロ離れています。原発、放射能の知識などまったく無かった私は、まさか自分がその後、福島をはなれることになるなど、夢にも思いませんでした。
そして、我が家の電気が復旧した3月14日、3号機の爆発。さすがに、2回目の爆発となると不安になりました。翌日の3月15日、福島市の放射線量は24/時でした。しかし、その24マイクロシーベルトがどんな値なのか、安全なのか危険なのか当時の私は、さっぱりわかりませんでした。県外に住む友人から避難したほうがいいという連絡もきました。しかし、道路は寸断され、電車も止まっている、ガソリンも無い、どうやって、どこに避難してよいかもわかりません。地上波のテレビでは、「レントゲン1回で浴びる放射線の量は600マイクロシーベルトなので、なんら健康に影響はありません。安心して下さい」
「直ちに健康に影響はありません」とさかんに言っていました。
しかし、CS放送のニュース番組や、ネットの情報では、「原発は、メルトダウンしている。」「放出された放射性物質の量は、大変な量だ」ということを言っています。何の知識も持ち合わせていない私は、どちらを信じていいのか判らず、避難することもできず、「また、原発が爆発したらどうしよう?どこに逃げたらいいのだろう?」とオロオロするばかりでした。
その当時ほとんどのお店は閉店しており、開いていたとしても、1時間か2時間程度、ガソリンを節約するために移動手段は自転車や徒歩。お店に着いてからも外で1~2時間待つという状態でした。
私と娘も、食料や、水を手に入れるために、店の外に並ぶという日々が続きました。今となっては、娘を外に並ばせたことが悔やまれてなりません。そして、私が最も悔やんでいることは、2011年3月16日、福島市の水道水から水1キロあたりヨウ素177ベクレル、セシウム58ベクレルが検出されたことを知らずに飲んでいたことです。我が家は3月15日、水道が復旧しました。15日の夜は、実家の両親を家に呼び、温かい味噌汁を作り、お風呂に入り、洗濯をし、これで、日常が取り戻せると思い原発がこれ以上爆発しないようにと願いながら、水道が使えることのありがたみを感じていました。本当に、無知は罪です。
私は、それまで、原発のことなど、無関心、放射能の知識などゼロでした。そのため、娘や家族を被曝させてしまったのです。
その後、4月のはじめ、娘の通う小学校の放射線量が発表されました。地上1センチ3.4マイクロシーベルト、地上1メートル2.8マイクロシーベルトでした。その数値が安全なのか、危険なのかわからず不安だけが募る中、新学期が始まりました。
4月25日、ネットで見つけた、ある、市民団体が主催する「放射能から子どもたちを守る会」という集会に参加しました。
そこで、チェルノブイリ事故の際、年間5ミリシーベルトを超える地域に住んでいる住民は、移住すべきである。年間1~5ミリシーベルトの地域は、避難の権利があるということ。そして、原発労働者が5ミリシーベルトの被曝でガンになり労災認定されたということも知りました。この、事実を知ったとき、愕然としました。もう、3ミリシーベルトを超えるくらい、被曝しているし、このままだと、年間5ミリシーベルトどころじゃない。どうすればいいのだろう?そして、国は、子どもたちに年間20ミリシーベルトまで被曝させてもよいと言っていることに、またもや愕然とし、怒りと絶望、不安でいっぱいになりながら帰路につきました。
その4日後の4月29日、元内閣官房参与の小佐古敏荘教授が、校庭の利用基準20ミリシーベルトは、認められないと涙ながらに訴えた辞任会見を見て、怒りと、絶望と悔しさがますます募り、何とかしなければと思いはじめました。
その後、色々な、学者、専門家の講演会にも行きました。被曝低減のための施策をして下さいと、市役所、県庁にもお願いに行きました。
娘に初期被曝をさせてしまった私は、これ以上、娘を被曝させられない、避難したい、避難しなければという思いが大きくなっていきました。夫も、避難したほうがいいと言ってくれましたが、避難区域外の福島市からの避難者を受け入れてくれる所を探すのは、大変でした。京都府が、自主避難者を受け入れてくださるということを知り、ダメ元で、京都府の災害対策本部に電話をしたところ、とても、親切に私たちを受け入れてくださいました。
こうして2011年8月、私と娘は、京都市に母子避難することになりました。
京都に避難をしたものの、夫は、福島に住んでいるという2重生活です。経済的にはとても苦しい状況です。福島では、専業主婦だった私ですが、2012年の2月から、働きに出るようになりました。娘が生まれてから、約10年間以上、家にいた私が、いきなり、パートタイムではありますが、ほぼフルタイムで働きにでたせいでしょうか、2012年5月に、急性腎盂炎にかかり、8月には、帯状疱疹にかかってしまいました。
今もそうですが、日々生きるのに精一杯の状況です。
そんな中、なぜいま裁判の原告団に加わったのか?
今年に入り、国、東電、福島県は、私たち避難者の切り捨て政策を加速させています。
自主避難者への住宅支援の打ち切り、放射線量が年間20ミリシーベルト以上、50ミリシーベルト以上ある避難区域の解除など、命と健康、人権が軽んじられている政策を強行しています。本当に、憤りでいっぱいの日々です。
『原発事故を起こした加害者が、全く責任を取らない不条理に対して、今、声を上げないと一生後悔する』と思ったのが提訴を決めた一番の理由です。
去年の10月、福島の自宅の除染が終わりましたが、原発事故前の放射線量に戻ったわけではありません。汚染土の仮置き場が決まらないため、汚染土は、庭に埋めてあります。私の実家、ご近所の家は、裏庭に汚染土の入ったフレコンパックが積んであります。
フレコンパックは、劣化します。大雨や台風が来たら、流されてしまうかもしれません。実際、今月、起きた大雨の被害で、飯舘村の汚染土は、流されてしまいました。ホットスポットも沢山あります。風が吹けば埃が舞います。放射性物質も舞います。
事故前とは、何もかも違うのです。私たちは、無用な被曝をしなければいけないのでしょうか?被曝を避けることは、許されないのでしょうか?被曝を避ける選択をすれば、家族、お金、今まで築きあげたものを失ったまま我慢しなければならないのでしょうか?
人権が蹂躙されても、我慢しなければならないのでしょうか?
原発事故を起こした加害者が決めたことに被害者が従うのが司法なのですか?
そんなことが認められたら、この国は、法治国家と言えるのでしょうか?
この国の司法が正しく機能していることを示してください。お願いします。
by shien_kyoto
| 2015-09-30 10:20
| 期日
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