2017年 05月 13日
【傍聴ありがとうございました】京都訴訟第27回期日(5月12日)の報告 |
原発賠償訴訟・京都原告団を支援する会事務局の上野と申します。
昨日(5月12日)に行なわれた原発賠償京都訴訟第27回期日の報告です。長文、重複、共にご容赦ください。
今回は、抽選こそありませんでしたが、ちょうど発行した整理券の数が聴席数と同じとなり、無事満杯になりました。また、前回と違い、午後からも代理人席、原告席、傍聴席とも午前中とほぼ同じくらい埋まったままでした。参加されたみなさま、お疲れ様でした。
また、午後から4人の託児希望があり、前回と同じ託児スタッフのみなさまに引き受けていただきました。託児スタッフのみなさま、本当にお疲れ様でした。
今回証言に立ったのは7名(うち1名は、高齢のお母さんの代理人として2世帯分証言)でした。
◇郡山市から避難した女性は、父と自分は先天的に白血球が少なく、チェルノブイリに調査に入った人の話を聞いたこともあり、健康被害を懸念して避難を決めた。父が認知症だったので母親に任せるわけにはいかないため、高齢の両親も一緒に避難した。最初は「あなたたちだけで避難しなさい」と言っていた母だが、避難後には「窓を開けて洗濯物が干せて、食べ物も安心して食べられる」と喜んでくれた。環境が激変したこともあり父の認知症は進み、こちらで亡くなった。チェルノブイリでは被爆者手帳のような施策が行なわれている。わが国でもしっかりと責任をとり、必要な施策を講じてほしい、と訴えました。
◇福島市から避難した女性は、事故当時は放射線の知識がなかったのでネットで調べて、放射線管理区域というものがあることを知った。当時の福島市は3~5μSv/hあったので、長く居るのは危険じゃないかと思った。夫は住宅や車のローンが残っていて仕事を辞められず、長女は「友だちと離れたくないし、祖父母を置いて行けない」というので、下3人の子どもと一緒に母子避難した。夫との関係や生活費の負担もあり、子どもの学校のタイミングで帰らざるを得ないと思っている。国は法律できまっていることを守ってほしい、と訴えました。
◇福島市から避難した女性は、事故後、外気を取り込まないようにガムテープやサランラップで窓の隙間にめばりをし、子どもは一歩も外に出さなかったので、食べ物を口にしなくなって咳もひどくなった。放射能という得体の知れないものへの恐怖から心身ともに疲れ切った。夫は責任ある立場にいてすぐに退職はできなかったので母子避難した。その後夫も退職して合流した。現在でも、山林は除染されていないし、汚染土が積み上げられている。子育てする環境ではないと思うので戻れない、と証言しました。
◇福島市から避難した女性は、事故前の1月に家を新築し、自分は妊娠中だった。夫は住宅ローンが残っているので、2歳の長女と生後1か月の長男を連れて母子避難した。子どもが小さく、見知らぬ土地での生活は大変で、心身ともにストレスがたまった。夫は仕事を辞め、家を売却して合流したが、仕事がなかなか見つからず、見つかってもパワハラがあったりして4回転職した。貯金を使い果たし、避難生活を続けられなくなった。福島に戻った今でも、「離れた方がいいのではないか」と思いながら生活している。「出るも地獄、戻るも地獄」だ。福島が安全だというのなら、「自分が移住してみてください」と言いたい。美しい福島を戻してほしい、と訴えました。
◇三春町から避難した女性は、事故当時夫が海外に出張中、娘は祖父母に会いたいと中国の小学校に一時的に入学していて、自分一人だった。自宅の寝室で0.7μSv/hの線量だった。中国大使館がチャーター便を出して避難を呼びかけていた。いったん中国の実家に帰り、翌年3月に京都に避難した。その後、夫とは離婚することになった。原発事故さえなかったら、普通の暮らしをしていた。避難する必要もなかったし、この場に立つこともなかった。避難を選択する権利を認めてほしい。事故前の福島に戻してほしい、と訴えました。
◇いわき市から避難した女性は、事故前は過疎化対策で住民を募集していた貝泊に移住し林業や農業に取り組んでいた。コイコイ倶楽部のみなさんは移住者に親切で里山で暮らす知恵を教えてくれた。事故直後はほとんどの世帯が避難し、小学校が閉校になった。移住した5世帯全部が避難した。自分たちも子どもを被ばくから守るために避難した。実家がいわき市にあり、いずれは帰って母親の介護をしたいと思っているが、いまは土壌が汚染されており帰れない。事故がなければ、住み続けることができた。国と東電の無責任さには怒りで一杯だ。これ以上放射能で苦しむ人が出ないようにしてほしい、と訴えました。
◇福島市から避難した女性は、夫の父が所有する土地に知的障がい者のグループホームを建てるのが夢だった。事故当時は妊娠中だったので、胎児被ばくを避けるために避難した。親族でも弟世帯、夫の姉世帯、祖父母など半数ぐらいが避難した。自分は甲状腺にのう胞が見つかり、3人中2人の医師から「悪性の疑いがある形をしている」と言われている。娘も甲状腺異常があり、白血球の好中球が少ないと言われた。放射線との因果関係はあるともないとも言えないと聞いている。原因が初期被ばくによるものなら帰れない。事故によりかけがえのないものを沢山失った。被災地に残る人は見捨てられたように感じる。人の命が一番大切にされる社会になるよう望んでいる、と訴えま した。
証言に立たれた原告のみなさんは、これまでの原告と同じように自分の思いを率直に述べ、被告側の反対尋問にも誠実に対応していました。それに対し被告側代理人は、加害者側なのに検事のように尋問し、傍聴席の支援者の怒りを買いました。その上、やり取りが傍聴席にまで伝わりにくかったことやエアコンの配管から時々大きな騒音が聞こえて一層聞こえにくかったことで傍聴者の不満が爆発。さらには被告側代理人の反対尋問がしばしば規定時間をオーバーしたことに川中弁護団長が抗議するなど、休憩時間に法廷の内外で大きな声が飛び交うというハプニングが起きました。
本人尋問は終了時刻を予想するのが難しいこともあり、今回も報告集会は設定せず、食事をとりながら昼休み集会を行ないました。午前中に証言を終えた原告や午後から本人尋問に臨む原告が挨拶。参加者から今後の取組みの告知がされました。また、前回期日に予告されていた宗川先生の新作『福島甲状腺がんの被ばく発症』(文理閣)が発売になり、会場で売れた代金の中から6千円の寄付をいただきました。この場を借りて、宗川先生にお礼を申し上げます。
次回は5月26日(金)です。原告本人尋問の傍聴もいよいよ最後となります。次回も傍聴席を満杯にしたいと思いますので、ご協力をお願いします。
また5月20日には、弁護士会館の大ホールで支援する会の総会(13時~13時30分)、原発賠償京都訴訟の勝利をめざす市民の集い(13時30分~16時40分)を開催します。市民の集いでは、吉村良一・立命館大教授に「群馬訴訟判決の評価と各地の集団訴訟の争点」と題してお話いただき、田辺保雄弁護士に「京都訴訟の勝利への展望」を語っていただきます。こちらも、ぜひご参加ください。
昨日(5月12日)に行なわれた原発賠償京都訴訟第27回期日の報告です。長文、重複、共にご容赦ください。
今回は、抽選こそありませんでしたが、ちょうど発行した整理券の数が聴席数と同じとなり、無事満杯になりました。また、前回と違い、午後からも代理人席、原告席、傍聴席とも午前中とほぼ同じくらい埋まったままでした。参加されたみなさま、お疲れ様でした。
また、午後から4人の託児希望があり、前回と同じ託児スタッフのみなさまに引き受けていただきました。託児スタッフのみなさま、本当にお疲れ様でした。
今回証言に立ったのは7名(うち1名は、高齢のお母さんの代理人として2世帯分証言)でした。
◇郡山市から避難した女性は、父と自分は先天的に白血球が少なく、チェルノブイリに調査に入った人の話を聞いたこともあり、健康被害を懸念して避難を決めた。父が認知症だったので母親に任せるわけにはいかないため、高齢の両親も一緒に避難した。最初は「あなたたちだけで避難しなさい」と言っていた母だが、避難後には「窓を開けて洗濯物が干せて、食べ物も安心して食べられる」と喜んでくれた。環境が激変したこともあり父の認知症は進み、こちらで亡くなった。チェルノブイリでは被爆者手帳のような施策が行なわれている。わが国でもしっかりと責任をとり、必要な施策を講じてほしい、と訴えました。
◇福島市から避難した女性は、事故当時は放射線の知識がなかったのでネットで調べて、放射線管理区域というものがあることを知った。当時の福島市は3~5μSv/hあったので、長く居るのは危険じゃないかと思った。夫は住宅や車のローンが残っていて仕事を辞められず、長女は「友だちと離れたくないし、祖父母を置いて行けない」というので、下3人の子どもと一緒に母子避難した。夫との関係や生活費の負担もあり、子どもの学校のタイミングで帰らざるを得ないと思っている。国は法律できまっていることを守ってほしい、と訴えました。
◇福島市から避難した女性は、事故後、外気を取り込まないようにガムテープやサランラップで窓の隙間にめばりをし、子どもは一歩も外に出さなかったので、食べ物を口にしなくなって咳もひどくなった。放射能という得体の知れないものへの恐怖から心身ともに疲れ切った。夫は責任ある立場にいてすぐに退職はできなかったので母子避難した。その後夫も退職して合流した。現在でも、山林は除染されていないし、汚染土が積み上げられている。子育てする環境ではないと思うので戻れない、と証言しました。
◇福島市から避難した女性は、事故前の1月に家を新築し、自分は妊娠中だった。夫は住宅ローンが残っているので、2歳の長女と生後1か月の長男を連れて母子避難した。子どもが小さく、見知らぬ土地での生活は大変で、心身ともにストレスがたまった。夫は仕事を辞め、家を売却して合流したが、仕事がなかなか見つからず、見つかってもパワハラがあったりして4回転職した。貯金を使い果たし、避難生活を続けられなくなった。福島に戻った今でも、「離れた方がいいのではないか」と思いながら生活している。「出るも地獄、戻るも地獄」だ。福島が安全だというのなら、「自分が移住してみてください」と言いたい。美しい福島を戻してほしい、と訴えました。
◇三春町から避難した女性は、事故当時夫が海外に出張中、娘は祖父母に会いたいと中国の小学校に一時的に入学していて、自分一人だった。自宅の寝室で0.7μSv/hの線量だった。中国大使館がチャーター便を出して避難を呼びかけていた。いったん中国の実家に帰り、翌年3月に京都に避難した。その後、夫とは離婚することになった。原発事故さえなかったら、普通の暮らしをしていた。避難する必要もなかったし、この場に立つこともなかった。避難を選択する権利を認めてほしい。事故前の福島に戻してほしい、と訴えました。
◇いわき市から避難した女性は、事故前は過疎化対策で住民を募集していた貝泊に移住し林業や農業に取り組んでいた。コイコイ倶楽部のみなさんは移住者に親切で里山で暮らす知恵を教えてくれた。事故直後はほとんどの世帯が避難し、小学校が閉校になった。移住した5世帯全部が避難した。自分たちも子どもを被ばくから守るために避難した。実家がいわき市にあり、いずれは帰って母親の介護をしたいと思っているが、いまは土壌が汚染されており帰れない。事故がなければ、住み続けることができた。国と東電の無責任さには怒りで一杯だ。これ以上放射能で苦しむ人が出ないようにしてほしい、と訴えました。
◇福島市から避難した女性は、夫の父が所有する土地に知的障がい者のグループホームを建てるのが夢だった。事故当時は妊娠中だったので、胎児被ばくを避けるために避難した。親族でも弟世帯、夫の姉世帯、祖父母など半数ぐらいが避難した。自分は甲状腺にのう胞が見つかり、3人中2人の医師から「悪性の疑いがある形をしている」と言われている。娘も甲状腺異常があり、白血球の好中球が少ないと言われた。放射線との因果関係はあるともないとも言えないと聞いている。原因が初期被ばくによるものなら帰れない。事故によりかけがえのないものを沢山失った。被災地に残る人は見捨てられたように感じる。人の命が一番大切にされる社会になるよう望んでいる、と訴えま した。
証言に立たれた原告のみなさんは、これまでの原告と同じように自分の思いを率直に述べ、被告側の反対尋問にも誠実に対応していました。それに対し被告側代理人は、加害者側なのに検事のように尋問し、傍聴席の支援者の怒りを買いました。その上、やり取りが傍聴席にまで伝わりにくかったことやエアコンの配管から時々大きな騒音が聞こえて一層聞こえにくかったことで傍聴者の不満が爆発。さらには被告側代理人の反対尋問がしばしば規定時間をオーバーしたことに川中弁護団長が抗議するなど、休憩時間に法廷の内外で大きな声が飛び交うというハプニングが起きました。
本人尋問は終了時刻を予想するのが難しいこともあり、今回も報告集会は設定せず、食事をとりながら昼休み集会を行ないました。午前中に証言を終えた原告や午後から本人尋問に臨む原告が挨拶。参加者から今後の取組みの告知がされました。また、前回期日に予告されていた宗川先生の新作『福島甲状腺がんの被ばく発症』(文理閣)が発売になり、会場で売れた代金の中から6千円の寄付をいただきました。この場を借りて、宗川先生にお礼を申し上げます。
次回は5月26日(金)です。原告本人尋問の傍聴もいよいよ最後となります。次回も傍聴席を満杯にしたいと思いますので、ご協力をお願いします。
また5月20日には、弁護士会館の大ホールで支援する会の総会(13時~13時30分)、原発賠償京都訴訟の勝利をめざす市民の集い(13時30分~16時40分)を開催します。市民の集いでは、吉村良一・立命館大教授に「群馬訴訟判決の評価と各地の集団訴訟の争点」と題してお話いただき、田辺保雄弁護士に「京都訴訟の勝利への展望」を語っていただきます。こちらも、ぜひご参加ください。
by shien_kyoto
| 2017-05-13 20:48
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