2017年 04月 06日
原発賠償京都訴訟 第25回期日の報告です! |
支援する会事務局の上野と申します。
3月29日の原発賠償京都訴訟第25回期日の報告です。今回は春休み、年度末という事情もあってか、支援者の出足が悪く、時間切れで抽選には至りませんでしたが、傍聴券はすべてなくなり、傍聴席は満席となりました。
今回は原告7人が証言台に立ちました。前回と同じように主尋問5分、反対尋問20分(東電・国合わせて)、再主尋問5分という変則の時間配分でした。それぞれの原告が訴えた要点をまとめてみました。なお、資料はなく、耳で聞いたことをメモしたので、聞き間違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。
◇須賀川市から避難し、いまは戻っている男性は、念願のお好み焼き屋を開業していたが、事故が起こり、一番は娘の健康だと思い、店を処分して避難。だが、いい就職口が見つからず、3年後に戻った。私の人生は原発事故で狂わされ、夢をあっという間に壊された。その責任を取ってほしい、と訴えました。
◇福島市から避難した女性は、自分の工房を持ち、陶器の制作・販売、陶芸教室を開いていた。収入は少なかったが喜びを感じていた。娘の健康被害を心配して避難した。避難後は陶器の制作はしていない。工房は今も線量が高くて帰れない。放射線量が事故前に戻ったら、すぐにでも帰りたい、と証言しました。
◇いわき市から避難した女性は、何も知らずに外に出て子どもたちを被曝させた。これ以上被曝させたくないと思い避難した。今年の正月に実家に帰った時、周囲の線量を測ったが、自宅前にあるブルーシートや神社など線量が高いところがあり、帰るのは危険だと思った。かけがえのない時間を犠牲にして避難したことを理解してほしい、と訴えました。
◇福島市から避難し、いまは戻っている女性は、パティシエとしてお菓子教室を開いていた。避難先では優しい言葉をかけてくれる人もいたが、差別的なことを言う人もいた。心身の疲労と経済的にやっていけなくて、妥協して戻らざるを得なかった。フレコンバッグがあちこちにあり、昔のようではない。食材についてはとても気を使っている、と証言しました。
*次は郡山市から避難の女性でしたが、私は井関弁護士から呼ばれて廊下に出たために、主尋問と東電代理人の反対尋問を聞くことができず、要点をまとめることができません。悪しからず。
◇福島市から避難し、いまは新潟県の長女宅に身を寄せる女性は、助産士の資格を取り、長年の夢だった助産所を開設。もともとプルサーマルに反対し、もし事故があれば避難しようと思っていたので、三女のいる京都へ。その後、左腕を壊死性感染症に侵され、入院中付き添ってくれた長女の家に移住。助産所のお客は80人ぐらいいたが、そのうちの15人くらいが避難した。事故が落ち着けば帰りたい。チェルノブイリのように原発を囲ってもらいたい、と訴えました。
◇いわき市から避難した女性は、観光農園を営み、ブルーベリーなどを栽培していた。ベリー類は収穫するまでに時間がかかる上に、放射能を吸着しやすいため、原発の爆発に危機感を持ち、農園を廃業して避難した。京都で起業を支援するプロジェクトに応募し、ブルーベリー栽培を始めたが、収穫はまだ。葛藤しながら生活している、と証言しました。
今回の反対尋問では、細かい質問が目立ちました。自分で放射線量を測定した原告に対しては、「どんな器具を使ったか?」、「いつ購入したか?」、「どこを測ったか?」、「地上何センチで測ったか?」、「計測した数値はメモしたか、誰がメモしたか?」、「この数値は記憶で書いたのか?」など。また、「家財道具の処分の意味は?」(売ったのか、捨てたのか?)、「領収書は残していないのか?」など損害請求の内訳についても細かく聞いてきました。
証言された原告のみなさんは、あとで振り返れば、あそこはこう言えば良かったとか、陳述書をもう一度ちゃんと読んでおくべきだったなど、いろいろ反省点はあると思いますが、それぞれ頑張って証言されました。
トピックを一つ。今回は証言者が7名といつもより少なかったこともあってか、反対尋問が決められた10分(東電)、10分(国)を超えることがしばしば。いまは新潟県に在住の女性に対する東電代理人の反対尋問が特に長く、どう考えても20分ぐらい尋問しているなといらいらしていた時でした。川中弁護団長がすくっと立ち上がって、裁判長に抗議してくれました。
そもそも3時半には終わるだろうと予想して、報告集会を3時半から5時までと設定し、群馬訴訟判決の解説を予定していましたが、裁判長の緩慢な訴訟指揮で時間が大幅にずれ込み、終わったのは4時半。会議室が5時半まで取ってあったので、とりあえず報告集会へと声をかけ、30数名の支援者と証言台に立った2名を含む11名の原告の参加がありました。
群馬訴訟判決について解説するはずの田辺弁護士は進行協議で到着が遅れ、会場を出なければいけない5時半にやっと到着。当初予定を大幅に短縮して15分程度で話してもらいました。敷地高を超える津波は予見可能だった、また時間も費用もそんなにかからない措置をとっていれば結果は回避できたとして、東電と規制権限を行使しなかった国の責任を認めた点は評価できることが確認できました。ただ、それに比べて損害については半分以上の原告が賠償を認められず、認められた賠償額も極めて低額である点については疑問がのこりましたが、時間切れで質問の時間がとれませんでした。
群馬訴訟判決については、支援する会の総会&講演会(日程未定)でも取り上げようと計画しています。次の期日(原告本人尋問)は4月21日(金)です。引き続き、ご支援をよろしくお願いします。
3月29日の原発賠償京都訴訟第25回期日の報告です。今回は春休み、年度末という事情もあってか、支援者の出足が悪く、時間切れで抽選には至りませんでしたが、傍聴券はすべてなくなり、傍聴席は満席となりました。
今回は原告7人が証言台に立ちました。前回と同じように主尋問5分、反対尋問20分(東電・国合わせて)、再主尋問5分という変則の時間配分でした。それぞれの原告が訴えた要点をまとめてみました。なお、資料はなく、耳で聞いたことをメモしたので、聞き間違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。
◇須賀川市から避難し、いまは戻っている男性は、念願のお好み焼き屋を開業していたが、事故が起こり、一番は娘の健康だと思い、店を処分して避難。だが、いい就職口が見つからず、3年後に戻った。私の人生は原発事故で狂わされ、夢をあっという間に壊された。その責任を取ってほしい、と訴えました。
◇福島市から避難した女性は、自分の工房を持ち、陶器の制作・販売、陶芸教室を開いていた。収入は少なかったが喜びを感じていた。娘の健康被害を心配して避難した。避難後は陶器の制作はしていない。工房は今も線量が高くて帰れない。放射線量が事故前に戻ったら、すぐにでも帰りたい、と証言しました。
◇いわき市から避難した女性は、何も知らずに外に出て子どもたちを被曝させた。これ以上被曝させたくないと思い避難した。今年の正月に実家に帰った時、周囲の線量を測ったが、自宅前にあるブルーシートや神社など線量が高いところがあり、帰るのは危険だと思った。かけがえのない時間を犠牲にして避難したことを理解してほしい、と訴えました。
◇福島市から避難し、いまは戻っている女性は、パティシエとしてお菓子教室を開いていた。避難先では優しい言葉をかけてくれる人もいたが、差別的なことを言う人もいた。心身の疲労と経済的にやっていけなくて、妥協して戻らざるを得なかった。フレコンバッグがあちこちにあり、昔のようではない。食材についてはとても気を使っている、と証言しました。
*次は郡山市から避難の女性でしたが、私は井関弁護士から呼ばれて廊下に出たために、主尋問と東電代理人の反対尋問を聞くことができず、要点をまとめることができません。悪しからず。
◇福島市から避難し、いまは新潟県の長女宅に身を寄せる女性は、助産士の資格を取り、長年の夢だった助産所を開設。もともとプルサーマルに反対し、もし事故があれば避難しようと思っていたので、三女のいる京都へ。その後、左腕を壊死性感染症に侵され、入院中付き添ってくれた長女の家に移住。助産所のお客は80人ぐらいいたが、そのうちの15人くらいが避難した。事故が落ち着けば帰りたい。チェルノブイリのように原発を囲ってもらいたい、と訴えました。
◇いわき市から避難した女性は、観光農園を営み、ブルーベリーなどを栽培していた。ベリー類は収穫するまでに時間がかかる上に、放射能を吸着しやすいため、原発の爆発に危機感を持ち、農園を廃業して避難した。京都で起業を支援するプロジェクトに応募し、ブルーベリー栽培を始めたが、収穫はまだ。葛藤しながら生活している、と証言しました。
今回の反対尋問では、細かい質問が目立ちました。自分で放射線量を測定した原告に対しては、「どんな器具を使ったか?」、「いつ購入したか?」、「どこを測ったか?」、「地上何センチで測ったか?」、「計測した数値はメモしたか、誰がメモしたか?」、「この数値は記憶で書いたのか?」など。また、「家財道具の処分の意味は?」(売ったのか、捨てたのか?)、「領収書は残していないのか?」など損害請求の内訳についても細かく聞いてきました。
証言された原告のみなさんは、あとで振り返れば、あそこはこう言えば良かったとか、陳述書をもう一度ちゃんと読んでおくべきだったなど、いろいろ反省点はあると思いますが、それぞれ頑張って証言されました。
トピックを一つ。今回は証言者が7名といつもより少なかったこともあってか、反対尋問が決められた10分(東電)、10分(国)を超えることがしばしば。いまは新潟県に在住の女性に対する東電代理人の反対尋問が特に長く、どう考えても20分ぐらい尋問しているなといらいらしていた時でした。川中弁護団長がすくっと立ち上がって、裁判長に抗議してくれました。
そもそも3時半には終わるだろうと予想して、報告集会を3時半から5時までと設定し、群馬訴訟判決の解説を予定していましたが、裁判長の緩慢な訴訟指揮で時間が大幅にずれ込み、終わったのは4時半。会議室が5時半まで取ってあったので、とりあえず報告集会へと声をかけ、30数名の支援者と証言台に立った2名を含む11名の原告の参加がありました。
群馬訴訟判決について解説するはずの田辺弁護士は進行協議で到着が遅れ、会場を出なければいけない5時半にやっと到着。当初予定を大幅に短縮して15分程度で話してもらいました。敷地高を超える津波は予見可能だった、また時間も費用もそんなにかからない措置をとっていれば結果は回避できたとして、東電と規制権限を行使しなかった国の責任を認めた点は評価できることが確認できました。ただ、それに比べて損害については半分以上の原告が賠償を認められず、認められた賠償額も極めて低額である点については疑問がのこりましたが、時間切れで質問の時間がとれませんでした。
群馬訴訟判決については、支援する会の総会&講演会(日程未定)でも取り上げようと計画しています。次の期日(原告本人尋問)は4月21日(金)です。引き続き、ご支援をよろしくお願いします。
by shien_kyoto
| 2017-04-06 00:01
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