2014年 11月 04日
11・3団結まつりでの避難児童(小学6年生、南相馬から京都)の発言から |
11・3団結まつりのメインステージで、原発賠償京都訴訟原告と支援する会を代表して、福島嵯都さん(小学6年生)が発言しました。発言の全文を掲載します。
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私は原発賠償訴訟の原告団に入っている母を持つ福島嵯都です。今回は、私が発言する時間をくださってありがとうございます。
私は、2011年の4月に福島県南相馬市と言うところから、母、姉、私の家族3人で避難してきました。2011年3月11日、私たちはそれぞれ、学校、会社にいて、私は今から帰ろうと用意をしようとしたその時、学校が大きく揺れはじめました。当時2年生だった私は、何が何だかわからなかったから、泣きじゃくっていたのをはっきりと覚えています。揺れがおさまって動こうとしたら、もう一度おそってきた揺れは、学校の天井をも壊すほどの恐ろしさでした。
その日の夜は車の中ですごしました。翌日、パルセ飯坂という施設での避難生活が始まりました。と同時に、原発が爆発しました。そのころからずっとマスクをしていました。寝ているときに来る余震、原発爆発後の飯坂に充満する放射能・・・。そんな生活に限界を感じていた4月1日、支援のバスで大好きだった町を離れて、京都に来ました。もう、戻れないとも知らずに・・・。
そして、京都に避難してきて、仲の良い友達とも離ればなれになって、楽しかったあの学校や生活も全て奪われ、きれいだった小川や森、人々にも害を与えた原発がにくかったし、もうあの頃や自然はもどらないと思うと、なんだか本当に悲しくて涙が出てきそうです。
もう、こんな事がないように、もう、誰もが傷つかないように私の母たちは、原告団に入って原発のない平和な日本に変えようとしています。それを支えるのが支援の会です。
ここでみなさんにお願いがあります。支援の会に入って、母たちの裁判を応援してください。どうか、よろしくお願いします。聞いていただき、ありがとうございます。
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私は原発賠償訴訟の原告団に入っている母を持つ福島嵯都です。今回は、私が発言する時間をくださってありがとうございます。
私は、2011年の4月に福島県南相馬市と言うところから、母、姉、私の家族3人で避難してきました。2011年3月11日、私たちはそれぞれ、学校、会社にいて、私は今から帰ろうと用意をしようとしたその時、学校が大きく揺れはじめました。当時2年生だった私は、何が何だかわからなかったから、泣きじゃくっていたのをはっきりと覚えています。揺れがおさまって動こうとしたら、もう一度おそってきた揺れは、学校の天井をも壊すほどの恐ろしさでした。
その日の夜は車の中ですごしました。翌日、パルセ飯坂という施設での避難生活が始まりました。と同時に、原発が爆発しました。そのころからずっとマスクをしていました。寝ているときに来る余震、原発爆発後の飯坂に充満する放射能・・・。そんな生活に限界を感じていた4月1日、支援のバスで大好きだった町を離れて、京都に来ました。もう、戻れないとも知らずに・・・。
そして、京都に避難してきて、仲の良い友達とも離ればなれになって、楽しかったあの学校や生活も全て奪われ、きれいだった小川や森、人々にも害を与えた原発がにくかったし、もうあの頃や自然はもどらないと思うと、なんだか本当に悲しくて涙が出てきそうです。
もう、こんな事がないように、もう、誰もが傷つかないように私の母たちは、原告団に入って原発のない平和な日本に変えようとしています。それを支えるのが支援の会です。
ここでみなさんにお願いがあります。支援の会に入って、母たちの裁判を応援してください。どうか、よろしくお願いします。聞いていただき、ありがとうございます。
by shien_kyoto
| 2014-11-04 04:46
| イベント報告
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Comments(1)
Commented
by
京都生協の働く仲間の会会員K
at 2014-11-15 19:31
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入会します。共にがんばりましょう。年会費を送付します。11月14日には、裁判所に行こうと思っていましたが、やはり、都合で無理でした。
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