2014年 04月 27日
京都訴訟第2回期日 原告・堀江みゆきさんの意見陳述 |
報告集会で発言する堀江みゆきさん
意見陳述
二次原告の親権者 母です。
今回の裁判で、私堀江みゆきと私の長女、次女、次男の4人が原告になっております。
東日本大震災発生、原発事故当時、私は両親と次女、次男の5人で福島市に暮らしておりました。福島第一原子力発電所が爆発したと知り、驚くと共に、漠然ととても不安な気持ちになり、大変なことが起きたと思いました。しかし、その時はすぐに避難しようとまでは思わず、考えてもいませんでした。12日の夜に、東京にいる長男や別れた夫から、すぐに逃げろ、できるだけ遠くへ行ったほうがいい、ネットやツイッターでは危険だと大変なことになっていると言われ、私は子供2人を連れ、会津若松市に住んでいた長女のアパートへ一時避難しました。
事故が起きた時の風向きや雪が降ったことの影響で、福島市には大量の放射性物質が撒き散らされ、汚染されてしまったにも関わらず、テレビでは直ちに人体に影響はない、レントゲン撮影で浴びる放射線量と比べ、問題ないと繰り返すばかりで、一体何が起きていて、私たちの生活にどのように影響するのかなど、不安は消えず、納得できる情報はありませんでした。
原発がどのようになるかわかるまで、せめて1週間は会津若松市へ留まるよう言われていたのですが、職場の状況と次男の高校の合格発表が気になり、私たちは14日に福島市へ戻りました。
福島市の空間放射線量は、事故前は1時間当たり0.04μSvくらいでしたが、15日には、24μSv近い、高い数値が発表されました。でも、その数値の意味するところもよくわからず、私たちは放射線量が高かった16日に、次男の高校の合格発表に出掛けました。息子は小雨が降る中、傘もささずマスクもしないで出掛けましたが、他にもそのような生徒がたくさんいました。また、父や私は水道が断水していたため、近所へ井戸水をもらいに行ったり、食べ物が手に入らず、スーパーの駐車場に並んだりしていました。このように無防備なまま外出したり、屋外で活動したことが私たちの体にどのような影響を及ぼしていたのか、また今後影響がでるのかわかりません。でも、正確な情報が伝えられていたなら、防ぐことができたことではないかと悔しく残念でなりません。
私は、2011年の8月に、長女、次女と次男の4人で京都市へ自主避難しました。私が避難することを決めたのは、将来、健康被害があるかもしれないと、子供の健康についてとても心配だったからです。事故は収束する様子もなく、調べれば調べるほど危険なのではないか、このまま住み続けていいはずがないと思いました。「高校生くらいに大きくなれば大丈夫、大人と変わらないよ」そう話す人もいましたが、私は子供を病気にするために産み育てたわけでないし、このまま福島に住み続けることへの不安、汚染された土壌でできた自家栽培の野菜を食べる不安、毎日水や食べ物に気を遣う生活に疲れ、もう耐えられないと思いました。もし将来、子供に何か起きたら、避難せず福島に留まったことを後悔する、また子供に後悔させたくない、そう思い京都へ来ました。
放射能の影響について、危険なのではないかという民間団体やネットでの情報と、テレビや新聞などの報道、福島県や市の市政だよりなどでは認識が違っていて、何を信じていいのかわかりませんでした。しかし、誰もわからないことなら、危険を回避することを選ぼうと私たちは決めました。その避難を決断するまで、また避難することを決めた後も、寝ても覚めても放射能のことで頭がいっぱいで、原発事故さえなければ、夢だったらどんなにいいかと何度思ったかわかりません。
私は幸い、周りの人から避難することを反対されることはありませんでした。しかし、子供たちはそれぞれいろいろな思いがあったようです。特に、当時高3だった娘は大変悩み、勉強も手につかないほどでしたが、卒業するまで福島に残りたいと言っていた娘を決心させたのは、「自分だったら避難するよ」という友達の一言でした。その頃の中学生、高校生は大人になっても結婚はしない、子供は産まない、県外には出ないなどと言っていました。子供たちも放射能の影響を恐れ、自分たちの将来について夢も持てないような状況だったのだと思います。京都の高校を卒業した娘ですが、自分の母校は福島の高校だけ、福島の友達と残りの高校生活を過ごし、そして卒業したかった、私の生活全てをめちゃくちゃにした原発事故が許せないと言っています。この事故の責任は一体どこにあるのでしょうか?謝罪の一言もなく、捜査も事故の責任の追及もされないまま3年もの時間が経過していることが不思議でなりません。事故の収束はおろか、今でも汚染水は海に漏れ続け、除染の効果もあがらず、空間線量は変わらない状況が続いています。それにも関わらず、避難解除がだされたり、私たちを福島に戻そうとするのはなぜなのでしょうか?元通りとは言えない環境の中で生活することが、本当に安全だといえるのでしょうか?
今年の2月に発表された福島県の県民健康管理調査では、甲状腺がんと診断が確定した子供と、がんの疑いがある子供併せて、74人となっています。現時点では放射線の影響は考えにくいと言われても私たちは不安でいっぱいです。私と子供3人は京都で甲状腺検査をしたところ、全員のう胞があると言われました。のう胞はがんにならない、原発由来かどうかわからない、そのように医師から言われましたが、それでも不安が消えることはありません。本来はなかったものではないかと疑わずにはいられません。
福島には私の母、姉や兄家族、友人知人が今でも普通に生活しています。戻ろうと思えば戻れる場所ですが、戻る気持ちにはなれません。目には見えなくても、放射能は変わることなく存在しており、設置されているモニタリングポストをみると、今でも空間線量は下がってるとは思えない値が続いています。空間線量だけでなく、福島市の実家近くの川のイワナからは220ベクレルという基準値を超える値が去年の8月に検出されました。また、実家の米からも微量ながらセシウムが検出されています。
このイワナが生息している川からは、実家の田んぼにも水がひかれています。私の父は2011年の11月に亡くなりましたが、生前、この川を守るため、天戸川清流を守る会という組織で活動していました。年に何回か草刈をしたり、地区の子供たちを集めてイワナや山女、鱒などの放流を行っていました。この川の水のお陰で美味しい米ができるとよく話していたものです。父や私の子供たちもこの川で遊び、釣りを楽しんだり、とても馴染のある大好きな場所でした。そんな場所が汚染されてしまい、本当に悔しいです。
父が亡くなり、3ヶ月ぶりに福島市へ帰省したとき、長女は、大好きな吾妻山を眺め深呼吸をしようと思ったけど、できなかったと言っています。原発事故の映像が流れた時に、故郷の景色が急に暗くなったような、不安な気持ちになったことで、以前と変わらない景色なのに不安がつきまとい、深呼吸する気持ちにはなれなかったそうです。どんなに変わらないように見えても、事故前のきれいな土地、自然には二度と戻りません。本当に悔しく、悲しくて残念なことです。
私たちが帰りたい、戻りたいと思うのは事故前の福島です。自然環境を破壊し、故郷を奪うような原発事故をひきおこした東京電力はもちろん、またその事故の対応や私達の健康、命を守るような措置がとられなかったことに対して政府や福島県が本当に許せません。
私は、自ら情報を集め、わからないなりに判断し、自分で決めて行動してきましたが、本来であれば、私たちの健康、命を守るのが国の役目ではないのでしょうか?事故当時、原発の極めて酷い状況はひた隠しにされ、真実が伝えられることはありませんでした。それは現在においてもなされていないように思います。裁判長をはじめ、この法廷内にいる皆さんにぜひ考えていただきたいです。そこに住んでいることによって、自分の子供や孫の健康が損なわれるかもしれないとしたらどうするか?住み続けるでしょうか?子供を守りたいと皆さんも思うのではないでしょうか。
どうか私達原告の声に耳を傾けてください。私たち家族に限らず、他の方も苦渋の決断で避難、移住してきています。避難する時の自分達だけが逃げる後ろめたさや罪悪感は今も消えず、心が晴れやかになることはありません。裁判官の皆さんの良心のもと、この事故の真相が明らかになり、責任の追及がなされることを望みます。これで私の意見陳述を終わります。
by shien_kyoto
| 2014-04-27 07:50
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