2014年 02月 08日
第1回期日 原告団共同代表 萩原ゆきみさんの意見陳述 |
2014年2月7日
意見陳述書
萩原ゆきみ
原発事故があった時、私たちは福島県の郡山市に暮らしていました。夫は独立し介護施設を立ち上げようと計画している時でした。6才と9才の娘達は、水泳で全種目泳げるようになることを目標にしていました。ピアノや英語も習っていました。私は専業主婦でしたが、将来、木の香り漂う我が家で、下宿屋をしようかサロンを開こうかと考えていました。
私たちの家は、玄関に入ったとたん、森林浴が出来ました。アレルギー体質の家族の為、床やドア等の建具に樹齢100年の天然パインを使っていたからです。壁紙もエコクロスを使っていました。どこへ遊びに行ったとしても、玄関に入ったとたんに毎日、「我が家が一番いいね」と、心がときめきました。
両家の両親を呼び、3世代で住む予定で、皆でお金と希望を出し合い建てた広い家です。(約25畳のリビング・ダイニング、2つの台所とトイレ、和室は約10畳、寝室は約14畳、子供部屋は2部屋約10畳ずつ、書斎は約5畳、)ファミリールームは約7畳で夫、手作りのブランコがありました。夜になると窓からはジャスコの観覧車がとても綺麗に見えました。
新居に入った夜に「私たちの正しくお城だね」と言ったのを覚えています。照明、カーテン、パーティーキッチン、洗面所、タオルハンガーとこだわって作りました。
震災後5日目に、私は娘二人を連れて福島県郡山市より大阪を経て京都に避難し、今は夫も京都に移住しております。
11日に大震災が起き、12日に原発が爆発したにも関わらず、ほとんどの人々が、買い出し、水汲み等の為、何日も何時間も外に並び続けてしまいました。
ラジオでは原発の様子を漠然とは伝えていましたが、「危険」とか「避難した方が良い」とかは全く伝えていなかったので、知らない間に残された人々は、みんな被曝してしまいました。
水や食料、ガソリンもあっという間に店から消え、みんなパニックになりました。 私たちは、次にいつ食べ物や飲み物が手に入るのか分からない恐怖に怯えました。大阪に避難するまでの五日間、私はいつもの四分の一食事。子どもたちでさえ、いつもお腹を空かせていました。
「みんな放射能が怖くて物資が届けられないんだ」「このまま福島に居たら、家族四人が餓死するかもしれない」と底知れぬ恐怖にかられました。震災四日目、外出先で「かなりの高い確率で一週間以内に本震と同程度の地震が来る」という話を聞き、その場で夫は残り、私と子ども達で避難する事を決めました。家まで走り、10分で荷造りを終え、空港に向かいました。
空港では1000人以上ではないかと思われる人々がキャンセル待ちをしていた。レストランで食事をしたのですが「元気な夫と会えるのもこれが最後かもしれない・・・・・」と食事が喉を通りませんでした。
そのまま空港に泊まみましたが「いつ原発が爆発して、大量の放射能が入ってくるか分からない」という恐怖に怯えながら、眠れない一夜を過ごしました。ドキドキしながら自分の順番を待ちました。乗れる事が分かってからも、言い尽くせぬ程の不安と恐怖があり、とにかく一分でも一秒でも早く福島の地を飛び立ちたいという気持ちで一杯でした。
息も詰まるような緊張の連続の末、大阪の地に下り立った時、「ああ・・・ここでは息をしても良いんだー」と思い、やっと安心して息をしました。
道端に咲く美しく可憐なビオラの花を見た私の目から涙がこぼれました。福島の我が家の庭では、春にはアスパラガスが、夏にはミニトマトがたわわに実り、子どもたちがそれらを無造作に取り、おやつに食べていました。なんてのどかで平和だったのでしょうか・・・。
3月15日に大阪に避難してからの1年と45日、私たちは妹夫婦の家に身を寄せていました。妹夫婦の家と姉夫婦の家を行ったり来たりの日々で、何処へ行っても、とても良くしてくれて、申し訳ない位でした。しかし、7~8人で生活していましたので、生活時間のやりくりがとても大変で、私の子供達の事は二の次、三の次にせざるを得ませんでした。
今、住んでいる所は、とても狭く、福島にあった大部分の家財道具は処分せざるをえませんでした。夫は洗濯物干場の下で寝ています。雲梯は子供が遊ぶ事無く、洋服かけになっていて、その下で私は寝ています。子供二人の6畳の薄暗い部屋に何もかも押し込まれている感じです。
避難後は、教育費や被災地に残して来た父母の今後のことや、私たちの老後の家賃の心配をしなくてはならなくなり、子どもたちの習い事は諦めざるおえなくなりました。
福島に居た時は、子どもたちを怒ったことがなく、子育ての苦労など感じた事もありませんでした。納得出来るまで話し合う心と時間の余裕がありました。
しかし、避難後、子供たちとの意思の疎通が上手くいかなくなりました。私も生活のために働きに出ざるをえなくなり、子どもとの時間もほとんどとれなくなっています。子供達との失われた時間は戻ってきません。子供達の将来の可能性も奪ってしまったのではないかと思います。
私たち夫婦は原発事故の起こる数週間前に3人目の子供を授かろうと決心した矢先でした。ここ一年以内が最後のチャンスでした。しかし原発事故後一年以上家族が揃う事も無く・・・又、被曝の恐ろしさもあり、第三子を授かることが出ませんでした。原発事故が無ければ、私の腕の中には2才になるかならないかの可愛い子が居た筈です。
私たちの家は、両家の両親、先祖達の力も借りて、私たち夫婦も努力して手に入れた物でした。何も悪い事をしていないのに、ある日突然、奪われてしまいました。
私たちは3月15日に大阪に避難しました。一緒に避難した友人家族が外部被曝を調べてもらったところ,被曝していなかったので,同じ日,同じ場所から同じところに避難した私たち三人も外部被曝をしていないはずです。
ところが,避難後、私たち親子三人には環境が変わったからというには 説明のつかない症状が次々に出ています。
私はずっと風邪をひいていて、一ヶ月位で治ったかと思ったら一日か二日で、またひいてしまいました。治っていたはずのアレルギーの再発 膝の痛み 酷い貧血 全身の凝り。2011年12月頃には虫歯が沢山出来て、歯に詰めてあった金属がたった一週間足らずの間に6個取れました。足の親指の爪も根元から ポロッと取れてしまいました。
私も子供達もとても疲れやすくなりました。
私も子供達も蚊に刺された所が必ず傷になりました。些細な傷が一年以上経っても治りませんでした。
子供達の霜焼けが恐ろしい程酷くなりました。手足が真っ黒 になり、桜が咲く直前まで綺麗になりませんでした。
京都に避難先を変える直前には鼻血や下痢を繰り返すようになり、突然、お腹の激痛におそわれるようになってしまいました。
これらの症状は広島・長崎で被爆された方々、原発事故のあったチェルノブイリの方々と同じだと聞き、被曝の影響ではとの不安をぬぐうことができません。
大阪から京都に引っ越しし,食材を今までとは別のところで買うようになってから,症状が激減しました。このとき,初めて内部被曝していたのでは・・・と思いました。チェルノブイリの原発事故のときも第二次成長期の子供たちに深刻な被害が出たと聞いていますが,それを裏付けるかのように,上の娘に今でも症状が出ています。
食品の規制基準は、事故前より格段に緩くなっており、私たちだけではなく、皆さんが食品などを通じて内部被曝の危険にさらされるようになっています。
どうか、原発事故の原因と責任を明らかにして下さい。
そしてその被害者である私たちを孤立させないで下さい。
意見陳述書
萩原ゆきみ
原発事故があった時、私たちは福島県の郡山市に暮らしていました。夫は独立し介護施設を立ち上げようと計画している時でした。6才と9才の娘達は、水泳で全種目泳げるようになることを目標にしていました。ピアノや英語も習っていました。私は専業主婦でしたが、将来、木の香り漂う我が家で、下宿屋をしようかサロンを開こうかと考えていました。
私たちの家は、玄関に入ったとたん、森林浴が出来ました。アレルギー体質の家族の為、床やドア等の建具に樹齢100年の天然パインを使っていたからです。壁紙もエコクロスを使っていました。どこへ遊びに行ったとしても、玄関に入ったとたんに毎日、「我が家が一番いいね」と、心がときめきました。
両家の両親を呼び、3世代で住む予定で、皆でお金と希望を出し合い建てた広い家です。(約25畳のリビング・ダイニング、2つの台所とトイレ、和室は約10畳、寝室は約14畳、子供部屋は2部屋約10畳ずつ、書斎は約5畳、)ファミリールームは約7畳で夫、手作りのブランコがありました。夜になると窓からはジャスコの観覧車がとても綺麗に見えました。
新居に入った夜に「私たちの正しくお城だね」と言ったのを覚えています。照明、カーテン、パーティーキッチン、洗面所、タオルハンガーとこだわって作りました。
震災後5日目に、私は娘二人を連れて福島県郡山市より大阪を経て京都に避難し、今は夫も京都に移住しております。
11日に大震災が起き、12日に原発が爆発したにも関わらず、ほとんどの人々が、買い出し、水汲み等の為、何日も何時間も外に並び続けてしまいました。
ラジオでは原発の様子を漠然とは伝えていましたが、「危険」とか「避難した方が良い」とかは全く伝えていなかったので、知らない間に残された人々は、みんな被曝してしまいました。
水や食料、ガソリンもあっという間に店から消え、みんなパニックになりました。 私たちは、次にいつ食べ物や飲み物が手に入るのか分からない恐怖に怯えました。大阪に避難するまでの五日間、私はいつもの四分の一食事。子どもたちでさえ、いつもお腹を空かせていました。
「みんな放射能が怖くて物資が届けられないんだ」「このまま福島に居たら、家族四人が餓死するかもしれない」と底知れぬ恐怖にかられました。震災四日目、外出先で「かなりの高い確率で一週間以内に本震と同程度の地震が来る」という話を聞き、その場で夫は残り、私と子ども達で避難する事を決めました。家まで走り、10分で荷造りを終え、空港に向かいました。
空港では1000人以上ではないかと思われる人々がキャンセル待ちをしていた。レストランで食事をしたのですが「元気な夫と会えるのもこれが最後かもしれない・・・・・」と食事が喉を通りませんでした。
そのまま空港に泊まみましたが「いつ原発が爆発して、大量の放射能が入ってくるか分からない」という恐怖に怯えながら、眠れない一夜を過ごしました。ドキドキしながら自分の順番を待ちました。乗れる事が分かってからも、言い尽くせぬ程の不安と恐怖があり、とにかく一分でも一秒でも早く福島の地を飛び立ちたいという気持ちで一杯でした。
息も詰まるような緊張の連続の末、大阪の地に下り立った時、「ああ・・・ここでは息をしても良いんだー」と思い、やっと安心して息をしました。
道端に咲く美しく可憐なビオラの花を見た私の目から涙がこぼれました。福島の我が家の庭では、春にはアスパラガスが、夏にはミニトマトがたわわに実り、子どもたちがそれらを無造作に取り、おやつに食べていました。なんてのどかで平和だったのでしょうか・・・。
3月15日に大阪に避難してからの1年と45日、私たちは妹夫婦の家に身を寄せていました。妹夫婦の家と姉夫婦の家を行ったり来たりの日々で、何処へ行っても、とても良くしてくれて、申し訳ない位でした。しかし、7~8人で生活していましたので、生活時間のやりくりがとても大変で、私の子供達の事は二の次、三の次にせざるを得ませんでした。
今、住んでいる所は、とても狭く、福島にあった大部分の家財道具は処分せざるをえませんでした。夫は洗濯物干場の下で寝ています。雲梯は子供が遊ぶ事無く、洋服かけになっていて、その下で私は寝ています。子供二人の6畳の薄暗い部屋に何もかも押し込まれている感じです。
避難後は、教育費や被災地に残して来た父母の今後のことや、私たちの老後の家賃の心配をしなくてはならなくなり、子どもたちの習い事は諦めざるおえなくなりました。
福島に居た時は、子どもたちを怒ったことがなく、子育ての苦労など感じた事もありませんでした。納得出来るまで話し合う心と時間の余裕がありました。
しかし、避難後、子供たちとの意思の疎通が上手くいかなくなりました。私も生活のために働きに出ざるをえなくなり、子どもとの時間もほとんどとれなくなっています。子供達との失われた時間は戻ってきません。子供達の将来の可能性も奪ってしまったのではないかと思います。
私たち夫婦は原発事故の起こる数週間前に3人目の子供を授かろうと決心した矢先でした。ここ一年以内が最後のチャンスでした。しかし原発事故後一年以上家族が揃う事も無く・・・又、被曝の恐ろしさもあり、第三子を授かることが出ませんでした。原発事故が無ければ、私の腕の中には2才になるかならないかの可愛い子が居た筈です。
私たちの家は、両家の両親、先祖達の力も借りて、私たち夫婦も努力して手に入れた物でした。何も悪い事をしていないのに、ある日突然、奪われてしまいました。
私たちは3月15日に大阪に避難しました。一緒に避難した友人家族が外部被曝を調べてもらったところ,被曝していなかったので,同じ日,同じ場所から同じところに避難した私たち三人も外部被曝をしていないはずです。
ところが,避難後、私たち親子三人には環境が変わったからというには 説明のつかない症状が次々に出ています。
私はずっと風邪をひいていて、一ヶ月位で治ったかと思ったら一日か二日で、またひいてしまいました。治っていたはずのアレルギーの再発 膝の痛み 酷い貧血 全身の凝り。2011年12月頃には虫歯が沢山出来て、歯に詰めてあった金属がたった一週間足らずの間に6個取れました。足の親指の爪も根元から ポロッと取れてしまいました。
私も子供達もとても疲れやすくなりました。
私も子供達も蚊に刺された所が必ず傷になりました。些細な傷が一年以上経っても治りませんでした。
子供達の霜焼けが恐ろしい程酷くなりました。手足が真っ黒 になり、桜が咲く直前まで綺麗になりませんでした。
京都に避難先を変える直前には鼻血や下痢を繰り返すようになり、突然、お腹の激痛におそわれるようになってしまいました。
これらの症状は広島・長崎で被爆された方々、原発事故のあったチェルノブイリの方々と同じだと聞き、被曝の影響ではとの不安をぬぐうことができません。
大阪から京都に引っ越しし,食材を今までとは別のところで買うようになってから,症状が激減しました。このとき,初めて内部被曝していたのでは・・・と思いました。チェルノブイリの原発事故のときも第二次成長期の子供たちに深刻な被害が出たと聞いていますが,それを裏付けるかのように,上の娘に今でも症状が出ています。
食品の規制基準は、事故前より格段に緩くなっており、私たちだけではなく、皆さんが食品などを通じて内部被曝の危険にさらされるようになっています。
どうか、原発事故の原因と責任を明らかにして下さい。
そしてその被害者である私たちを孤立させないで下さい。
by shien_kyoto
| 2014-02-08 10:24
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