2014年 01月 22日
週刊MDSから~原発被害者訴訟の原告とともに(2) |
週刊MDS 2014年01月03日・10日発行 1312号から
週刊MDSのホームページは http://www.mdsweb.jp/index.html
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原発被害者訴訟の原告とともに
国・東電に責任をとらせよう(2)
浪江町から千葉へ・山田芳子さん
千葉では2013年3月11日に避難8世帯20人が提訴。7月12日には8世帯24人が第2次提訴を行った。
●7か所を転々と
第1次訴訟の原告・山田芳子さんは、浪江町に夫と子ども2人の4人で住んでいた。実家は大熊町。結婚して浪江に移り、夫と共に夫の父親の営む水道施設関連会社で働いた。生まれも育ちも福島県、福島を出たことがないという山田さんだが、「地域のお祭りに家族で参加したり、子どもの友人家族や従業員家族とバーベキューに出かけたり、平穏な生活を送っていた。いずれは夫が父の後を継いで会社を経営する」はずだった。
それを一変させたのが、地震と原発事故だ。3・11当日は同じ町内の夫の実家に集合。12日の避難指示で家族4人と実家の両親、祖母の7人が町内の施設に一緒に避難した。2、3日の避難と思い、何も持たなかった。夕方、約11キロ離れた第1原発が爆発。夫の聞いた「すごい爆発音」が原発事故だったことは施設のテレビで知り、役場の指示を待つこともなく2台の車に分乗して逃げた。西の中通りに抜けるには山越えがあって時間を要するため、北へと向かった。
たどり着いた南相馬市でガソリンが尽き、スーパーの駐車場で車中泊。翌日、市役所で聞いた避難場所の保健福祉センターに行った。外出できず、外気が室内に入るのを防ぐため暖房は止められ、着替も入浴もできない生活に憔悴し、16日には親戚を頼って埼玉県へ移動。しかし7人が押しかけた親戚の負担も大きく、27日、ちょうど空き家になった2LDKを提供してくれた親戚のいる千葉県に移った。現在の借り上げ住宅に落ち着くまで7か所転々とした。
●仕事まで失った
浪江の会社は「帰還困難区域」にあり、働き場所を失った。「夫は千葉の市役所に登録されている水道関連会社を1軒1軒あたったが仕事はない。求人広告でやっと見つけ、非正規で雇ってもらった。強制避難区域といっても、住居から就労まで全部、自分たちで動いてやってきた」
新たな生活で困るのは経済的なことだけではない。「今の借り上げ住宅に住んでいる福島県からの避難者は私たち家族だけで肩身が狭い。地元の親戚らはほとんど福島県内に避難していてなかなか会えなくなった。友達に別れも言えずに転校を余儀なくされた子どもたちは『福島に帰りたい』と何度もこぼしていた。親として申し訳なく心苦しい」。コミュ二ティそのものが破壊されたのだ。
浪江の自宅は「居住制限区域」にされた。11月末、戻ってみると「ネズミが入っていてひどい状態。玄関先は毎時1・3μSv、雨どいは相当高かった。子どもの健康、将来を第一に考えたらもう帰れない。ライフラインはだめになっているし、がれきの山はたくさんある。除染は効果を上げていない」。
●傍聴席をいっぱいに
山田さんは、提訴を決意した思いをきっぱりと語る。「原発事故で平和な暮らしを根こそぎ奪われ、仕事も家も奪われた。海と緑に囲まれた美しいふるさとも奪われた。なぜ長期の避難生活を強いられなければならないのか、その責任が今のままでははっきりしない。裁判で東電と国の責任を明確にしたい。多くの原発被害者の糧となるよう、勇気を出して訴訟に加わった」
強制避難区域の住民に支払われている月1人あたり10万円の慰謝料。政府は、避難指示解除後1年で打ち切る方針を出した。汚染された浪江の土地・家屋は売れない。新築時の6~8割を賠償されても都会で同等のものを買えるはずがない。「区域内避難者は検査も医療費も来年2月まで無料だが、その後はどうなるか。区域外の方には10万円も医療費無料もなく、おかしな線引きだと思っていたが、私たちも同じように切り捨てられる」。不安を隠せない。「(勝訴のために)法廷をいっぱいに埋める傍聴をお願いしたい」と訴える。
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原発被害者訴訟の原告とともに
国・東電に責任をとらせよう(2)
浪江町から千葉へ・山田芳子さん
千葉では2013年3月11日に避難8世帯20人が提訴。7月12日には8世帯24人が第2次提訴を行った。
●7か所を転々と
第1次訴訟の原告・山田芳子さんは、浪江町に夫と子ども2人の4人で住んでいた。実家は大熊町。結婚して浪江に移り、夫と共に夫の父親の営む水道施設関連会社で働いた。生まれも育ちも福島県、福島を出たことがないという山田さんだが、「地域のお祭りに家族で参加したり、子どもの友人家族や従業員家族とバーベキューに出かけたり、平穏な生活を送っていた。いずれは夫が父の後を継いで会社を経営する」はずだった。
それを一変させたのが、地震と原発事故だ。3・11当日は同じ町内の夫の実家に集合。12日の避難指示で家族4人と実家の両親、祖母の7人が町内の施設に一緒に避難した。2、3日の避難と思い、何も持たなかった。夕方、約11キロ離れた第1原発が爆発。夫の聞いた「すごい爆発音」が原発事故だったことは施設のテレビで知り、役場の指示を待つこともなく2台の車に分乗して逃げた。西の中通りに抜けるには山越えがあって時間を要するため、北へと向かった。
たどり着いた南相馬市でガソリンが尽き、スーパーの駐車場で車中泊。翌日、市役所で聞いた避難場所の保健福祉センターに行った。外出できず、外気が室内に入るのを防ぐため暖房は止められ、着替も入浴もできない生活に憔悴し、16日には親戚を頼って埼玉県へ移動。しかし7人が押しかけた親戚の負担も大きく、27日、ちょうど空き家になった2LDKを提供してくれた親戚のいる千葉県に移った。現在の借り上げ住宅に落ち着くまで7か所転々とした。
●仕事まで失った
浪江の会社は「帰還困難区域」にあり、働き場所を失った。「夫は千葉の市役所に登録されている水道関連会社を1軒1軒あたったが仕事はない。求人広告でやっと見つけ、非正規で雇ってもらった。強制避難区域といっても、住居から就労まで全部、自分たちで動いてやってきた」
新たな生活で困るのは経済的なことだけではない。「今の借り上げ住宅に住んでいる福島県からの避難者は私たち家族だけで肩身が狭い。地元の親戚らはほとんど福島県内に避難していてなかなか会えなくなった。友達に別れも言えずに転校を余儀なくされた子どもたちは『福島に帰りたい』と何度もこぼしていた。親として申し訳なく心苦しい」。コミュ二ティそのものが破壊されたのだ。
浪江の自宅は「居住制限区域」にされた。11月末、戻ってみると「ネズミが入っていてひどい状態。玄関先は毎時1・3μSv、雨どいは相当高かった。子どもの健康、将来を第一に考えたらもう帰れない。ライフラインはだめになっているし、がれきの山はたくさんある。除染は効果を上げていない」。
●傍聴席をいっぱいに
山田さんは、提訴を決意した思いをきっぱりと語る。「原発事故で平和な暮らしを根こそぎ奪われ、仕事も家も奪われた。海と緑に囲まれた美しいふるさとも奪われた。なぜ長期の避難生活を強いられなければならないのか、その責任が今のままでははっきりしない。裁判で東電と国の責任を明確にしたい。多くの原発被害者の糧となるよう、勇気を出して訴訟に加わった」
強制避難区域の住民に支払われている月1人あたり10万円の慰謝料。政府は、避難指示解除後1年で打ち切る方針を出した。汚染された浪江の土地・家屋は売れない。新築時の6~8割を賠償されても都会で同等のものを買えるはずがない。「区域内避難者は検査も医療費も来年2月まで無料だが、その後はどうなるか。区域外の方には10万円も医療費無料もなく、おかしな線引きだと思っていたが、私たちも同じように切り捨てられる」。不安を隠せない。「(勝訴のために)法廷をいっぱいに埋める傍聴をお願いしたい」と訴える。
by shien_kyoto
| 2014-01-22 17:13
| 新聞報道
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